日記
まなざしのメンテ
2025/10/9
人を半ば偶像としてまなざし、向き合うことは、私にとっての快楽を生む。そのきっかけになるような瞬間は、こちらから迎えに行かずともやって来てしまう。抗うのも否定するのも難しい。一方で、快楽と支払うべき利他のバランスが崩れる、あるいは既に崩れている可能性を恐れている。私が愛やら声援やら感謝やら……として差し出しているものが、それを向けられる当人を当人が望まない方へ歪めているとしたら?
意図しようとしまいと、お互いに作用し合うのはどんな人との関係性であっても同じはず。なら、見る/見られる構図がほぼ固定されてしまう関係性の中で、その作用を暴力や侵犯と少しでも離れたものにするためには何ができるんだろう。(というか、立場を固定する関係性そのものが問題だとする方も当然いるだろうな。)
今のところ、当人が姿を表してくださるのは正直な動機(最低限、そのために費やすものと得られるものとの釣り合いに納得できている)からだと信じて応じることしかできていない。そう信じないというのも、今ここにある関係性や交わしてきたやりとりを蔑ろにする選択な気がしてしまう。
せめて私という存在や立場がそもそも持っている圧力と、それをどう振るってしまい得るかについては考えていたい。手の届く範囲でそのための素材を集めてもいるつもり。とはいえ、私はやはり目下の心地良さと信じたさを優先している。それで果たしてどこまで保つのか。保たせるつもりなのか。
(蛇足)
いやこれはやっぱりどんな人との間でも通じる話だよな〜、と読み直していて思った。冒頭の「半ば偶像としてまなざし……」の部分は、デフォで生まれちゃう圧力の差とか、質に影響するところ。そこが場合によって変わったとしても、お互いにとって「ならでは」でありつつ、なるべく苦痛の少ない付き合い方を探りたいのは誰と相対してても同じか。
まぁ、本文で書いたような関係性が特別悩ましいのも本当だけども……。